院長ブログ
日本口腔科学会
京都府立医科大学 歯科口腔科学教室同門会(緑伍会)
幹事長 嶋村浩一
「日本口腔科学会」という学会をご存じでしょうか?「日本口腔科学会」は権威ある「日本医学会(明治35年設立)」の一分科会で現在約4000人超の会員数を持つ歯科関連の中で最も歴史のある学会です。「日本口腔科学会」の資料を集めてみたところ本学会は歯科の苦難を学問として支え続けた歴史がありました。歯科医師は米国では子どものなりたい職業では10番以内に入りますが日本ではそうではありません。この違いは黎明期の苦難の中で生まれたのかも知れないと思い興味を持ち、調べてみました。
明治8年医術開業試験が実施。一般医科(内外科)の他内科、外科、産科、眼科、整骨科、口中科の専門科での受験が認められています。有名な小幡栄之助は横浜で開業していたエリオット(米国人)に師事し米国式のdentistryの考えより「口中科」ではなく「歯科」としての受験を申し出ました。内務省衛生局と東京医学校(後の帝大医学部、現東大医学部)との協議の上で歯科専門の試験を受け合格(医籍第4号、法的制度上は医師となります)。わざわざ「歯科」の名称に拘ったのは生真面目であったとされる小幡の性格からして当時の口中医の怪しげな行為に対しての反発もあったと思われます。
明治12年の医師試験規則に於いては公的な用語の「口中科」は「歯科」に変わり、明治16年医師免許規則に於いて「歯科」は医師試験から分離しています。試験科目になかった産科と眼科は一般医学に一括されていきます。医科は帝大卒の医師と開業試験で医師資格を持った者との間での軋轢(各種医師系団体との連携や排除)。漢方医の排除を考える動きがあります。「歯科」に関しては「口中科」から「歯科」への用語の変更で歯科医師は「歯」のみを考えるとの解釈にされてしまいます。この頃から「歯科」は医科との資格としての格差が生じていきます。政府は所謂、民間療法の類いの怪しげな医療を排除しながら漢方医を含め医学部出身でなければ正式な医師としての立場を認めなくなります。「歯科」は戦後初めて職業訓練校である専門学校ではなく大学歯学部ができたので学問としてのスタートは約一世紀の遅れが生まれます
明治初頭の「歯科」は怪しげな「歯抜き師」「入歯師」の類の職種が横行していました。明治20年代には後の歯科医専の始まりとなる歯科関係の勉強会が発足していますが当時は歯科開業試験対策の講習会のようなものであり学校ですらありませんでした。一方、帝大(明治29年まで大学は東大しか無かった)医学部を出て官費でドイツ留学をして凱旋帰国するといったスーパーエリート医師との社会的格差は大であり、日本連合医学会(日本医学会の前身)の中に帝大「歯科」が主導する本学会が存在することの学問的意義は計り知れなかったと思います。明治初期のドイツの医学部には「歯科」のみがあり歯学部はありませんでした。またドイツ医学を行うものからすると新興の米国仕込みの小幡、高山、井澤等の歯科は取るに足らないものと映ったのかもしれません。
明治33年東京帝国大学医学部に本邦初の歯科教室設置。第2外科佐藤三吉教授門下の石原久が助教授として就任(同年同教室より眼科、耳鼻科も分離設置)します。明治39年第2回日本連合医学会で第16分科会として初めての歯科学が参加。井澤信平(佐藤教授の歯科主治医でもありました)が「歯科医術」の講演(分科会会長石原久助教授)をしています。
明治39年3月に「医師法」が帝国議会に提出。当時、西洋医が1万数千人、歯科医師が約600人。附則18条に「歯科医ニハ医師法ノ規定ヲ適用セズ」とあります。「歯科」は医科から排除対象になっています。歯科医師会(血脇守之助会長)は急ぎ「歯科医師法」を作製し明治39年5月(次年度)に帝国議会に提出し辛うじて歯科医師の身分を守りました。
大正2年東京帝国大学歯科教室内で「歯科医局談話会」発足、大正7年「日本歯科口腔科学会」へと発展。本学会は帝大・医科大学の歯科或いは関連総合病院の歯科が中心になって全国組織の学会へと発展します。戦後、本分科会は「口腔学」そして「日本口腔科学会」と名称を変え現在に至っています。
大正3年島峰徹(東京医科歯科大学創設者)が9年間のドイツ留学(ベルリン大学歯学部:この頃には歯学部があった)よりトレポネーマの研究で高評価を得ての凱旋帰朝。ドイツで博士号も授与されています。東大「歯科」入局するも6ヶ月で退局。石原の医局運営に反発したためとされています。当時医局員であった北村一郎(後の名大教授、愛知県歯科医師会会長)、永松勝海(後の九歯学長)、佐藤運雄(後の日大総長)、高橋新次郎(後の東京医科歯科大学教授)、金森虎夫(後の東大教授)、檜垣麟三(後の東京医科歯科大学教授)、長尾優(後の東京医科歯科大学学長)も相次いで退局。また大阪医専(後の阪大)から弓倉繁家(後の阪大歯学部長)等が島峰の主催する永楽病院(文部省歯科)に集まりました。これが後の東京医科歯科大学です。
東大石原と永楽病院島峰の対立は医歯一元論・二元論、「歯科」に対する考え方の違い、最終的には両名の人間的な対決といった複雑な問題に発展します。政府・官僚からすれば東京帝国大学歯科と唯一の官立歯科医専(昭和3年設立)がいがみ合っていること。即ち「歯科」が一本化していないことが猶更に改革を推し進めることを困難にしたのかもしれません
大正7年「大学令」「高等学校令」が制定。これにより法学、医学、工学、文学、理学、農学、経済学及び商学のみが大学の学部として認められ一部の専門学校は大学に昇格。歯科は昭和21年まで専門学校(職業訓練校)に留置かれています。因みに大学昇格を果たしたのは慶応、早稲田、法政、明治、中央、日大、國學院、同志社、少し遅れて慈恵医科です。学問として軽く扱われる状態は歯科医師の社会的地位にも、医政にも大きく反映される事は皆さんご承知のとおりです。「歯科」は学問として認められていなかったのです。
「歯科」は学問でも科学でもなく医療でもないとされる時代があった中で「日本医学会」の中での「日本口腔科学会」の存在は「歯科」が学問であり科学であることを訴えています。医科からのみではなく他の学問分野からも「歯科」は学問でも科学でもないという扱いに私たちの先人は必死に抵抗を行いました。そして皮肉にも日本の敗戦によるGHQ統治下において血脇守之助、奥村鶴吉らの提案する米国式の医歯二元論が採用され歯学部・歯科大学、そして大学院設置に大きく舵が切られています。医歯一元論、二元論のどちらが良かったかはわかりません。しかし「歯科」は学問でも科学でも医療でもあり更にはアートでもあるといった現在の地位を獲得したのです。
「歯科」の幾多の困難の中で「日本口腔科学会」は「歯科」の学問的地位を守り「歯科」のみならず口腔科学を研究する場として会員数を増し各地での地方部会も開催され発展します。昭和13年日本口腔科学会第1回近畿地方部会が京都府立医科大学(大会会長本永七三郎教授)、平成7年同(大会会長堀亘孝教授)主催で開催されています。今回同じく京都府立医科大学(大会会長金村成智教授)主催で地方部会が開催されます。「日本口腔科学会」を皆さんのご協力で盛り上げて頂けるようにご参加をお待ちしています。
「第34回NPO法人口腔科学会近畿地方部会」で検索されると参加登録の案内があります